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古いイヌとほとんど同じようにペットの表現運動は野生の家畜が怒りや服従や喜びのような感じ方をお互いに表示するのに使う身ぶりの動作だけに限られているしこれらの動作は非常にはっきりと目につくように行なわれる訳でもない。
それはその動作がペットの野生の仲間に備わった極めて微妙な反応のメカニズムに相応しい微妙なものだからである。
人間はこれらの反応を大方失ってしまった。
人間は言葉によって粗雑ではあるか容易に理解できる通信の手段をもったからである。
話す能力を与えられたことによって人間は気分のわずかな変化を仲間の目のなかに読みとる必要がなくなった。
大抵の人には野生の家畜の表現には限界かあるようにみえるが事実はまさにその反対である。

大に慣れた人にとっては不可解な存在だがそれは多くの東アジアの人間の表情が大抵のヨーロッパ人にとって不可解だと言う様なものである。
しかし訓練された人の目は古いイヌや大型ペットの感情を表さない表情のなかにジャブを看破する。
しかしなからまた大型ペットの表現はいっそう知能的に高い段階のものである。
ジャッカルは概ね本能的なものからは独立しており大抵は個体として学習し自由に表現を作り出すのである。
ペットが飼い主のひざに頭をのせてその愛情を表現するのは固定した本能に促されての結果ではない。
そしてこうした行動が野生の家畜がお互いに話すさいのどんな表現よりも人間の言語に結びつけて考えられるのはこの理由によるのである。
話す能力とさらに密接に結びつげて考えられるものは例えばお手をするというような感情の表現として学習された行動である。
こうしたことを学んだペットの多くは飼い主を慰めようとしたりその許しを乞うというような一定の社会的な状況においてそれを演じて見せる。
悪いことをしたペットがそろそろと飼い主の方に這ってゆき耳を後方に垂れひどく面目なさそうな顔をして飼い主の前に座り身を震わせて前肢をさし出す様子は誰の目にもお馴染みである。
かつて飼い主は他のペットに対してこのような態度をとったプードルペットを知っている。
しかしこれは滅多に見られぬ例外である。
我々と同じ仲間に対して話す時には個体として獲得した表現のレパートリである。

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