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レンゲ日記


レンゲ日記のこえ

栽花園はモミジで有名だったが、二代目は高山植物などの山草に特別な興味を示し、その蒐集に努めた人だから、園芸関係者やボンサイ家多数がつめかけたほかに、山草家も多数やってきた。
霊前に捧げられた山草の数は九十余種、鉢数にして数百鉢に及んだという。
その主なものはコマクサ、スズムシ草、ホテイ蘭、アツモり草、岩ヒゲ、白山ナデシコ、岩南天、雪割小桜、八ヶ岳キンポウゲ、シコタン草、チョウノスケ草、黄花イカリ草、マイズル草などがあり、松戸の園芸学校からも見学のため毎生徒がやてきた。
すほどの勢いの商人であっ尤が、死去した。
三代目により、翌年追善の会が行われた。
当代超一流の店だっただけに第一会場と第二会場があった。
第一会場は東京新宿の美術倶楽部であった。
第一席が祭壇で、これは当主が持ち、献花が行われ、第二席は茗筵席、第三席から第十席までは業者が席持ちのボンサイ展、第七席が諸名家珍歳の書画展観で、本山幽篁堂や石井三柳堂の画商が席を持った。
㍉第二会場は芝の紅葉館。
これは諸大家がボンサイを提供していた。
松平頼寿(伯爵)、酒井忠正(同)。
頼母木桂吉(東京市長)、野口信太郎(佐野市)、島田務(静岡市)、山中清兵衛(株仲介人)、早川忠吉(満鉄総裁の子息)などの名があげられている。
新潟の石油王中野忠太郎は、荷貨車一輌を借り切って、新潟から会場に運び、席を飾って、故人の旧誼を偲んだという。
こうした大富豪、大趣奇者がいて、供養ボンサイ会は成立するものであーー、余人はとうてい真似することさえできない。
さきにも書いた瀞庵・清水利太郎は大宮ボンサイ村の創設者で同ボンサイ村に記念碑も建てら九た。
昭和三十年に八十二才で死去した町翌年の一周忌に、同じく同村の発展に功労のあった蔓青園・加藤留吉とともに、追善の陳列会が行われている。
これほ功労者を偲ぶためのものであった例だ。
しかし、・

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