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レンゲ日記


レンゲ日記のこえ

式は日没から始まる。
八楽荘自らが白衣に僧衣の袈裟をつけ、加藤蔓青園主人と用入の二人を伴僧にして読教、焼香、清大園瀞庵と趣奇者北沢楽天の弔辞があって式が終る。
つづいて奉納の芸能として、ボンサイ幽霊の霊的劇や謡曲、義太夫、手踊、物真似などを行い、夜深く散会した。
彼はへボンサイの枯木に花咲く供養かな、の一句を物にしている。
当日は東京、大宮、両毛から参加し、ボンサイ村の業者諸氏も後援しており、芙蓉園主などは封1を着用、齢榔干冠りで、来客係長としてはりきったとある。
以後こうした風流人が出たことを知らない。
なお八楽荘の言葉に次のものがある。
「裏に二本の枝があれば、立派なボンサイにしてみせる」 「ボンサイへの愛着とは、流した汗をはかるとわかる」追悼のボンサイ会 追善会という名を冠したボンサイ会がいつごろから開れたかははっきりした記録が残っていない。
枯木供養などが行われ、ボンサイを供養することが趣味者の間に行われていたし、おそらく、有名入が死去した場合にも供養が行われてしかるべきだが、そのパックに支援する業者や団体、あるいは関係簿窪いとできない.趣馨の蓉、義毒労があったとい頚各しを・例がほとんどで、またその蒐集品も離散してしまうから、まず追善会が行われることは稀にしかなかったようだ。
それに対し業者の場合は営む園の存統に命運がかかるために追善のボンサイ大会を盛大に行い、先代の霊を慰めるとともに、その園の継承者の地位を安定させる必要があった。
しかし、どのボンサイ商でもできるかというと、それはまず不可能で、やはり有力な、財政的に余裕のある業者だけに許された特権でもあった。
内山長太郎の初代は幕末期から明治にかけての最大の植木商で、その名は天下にとどろいていた。
この二代目の長太郎は親の七光りもあってか、園 芸界の要職にもつき、大正十三年に死去している。
死んでからちょうど一年目の大正十四年五月十六、十七の画日、追善のため山草会が内山邸の栽花園(巣鴨)で開かれている。

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